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100 YEAR HISTORY

マツヤ産業は2024年に
創業100周年を迎えます


マツヤ産業、1924年より100年の歩みをご紹介します。

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1章 創業者の人生と創業

Philosophy

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マツヤ産業は大正十三年(一九二四年)、創業者・玉西義雄が溶接請負業として個人商店『マツヤ熔工所』を創業したことに始まる。
義雄が二十七歳の年である。

和歌山県高野山下(現.橋本市)の農家の三男として生まれた義雄は小学校を出るとすぐ丁稚奉公に出され、多様な職を経験した。
その後、二十二歳の時に大阪に出て当時の先端工業である自転車工場の松浦溶工所に入り、ガス溶接の技術を習得。

五年後に独立して溶接専門工場を開業した。
社名の由来は先妻実家の生業『竹屋』にこの松浦溶工所の一文字をもらったと言われている。

創業間もなく先妻を亡くし、昭和の大恐慌の折には、仕事の激減とともに二人の幼子を立て続けに亡くすなど、大変な試練に見舞われていた。

家族と会社を守るため、義雄はこの難局を必死で乗り越えた。
その中でより、“周りの人々への感謝の心”と自分だけが良くてもダメだという事に気づかされる。
そこから義雄は溶接加工請負の本業とともに、業界全体のためにも奔走しはじめたのである。

マツヤ産業は大正十三年(一九二四年)、創業者・玉西義雄が 溶接請負業として個人商店『マツヤ熔工所』を創業したことに始まる。
義雄が二十七歳の年である。

和歌山県高野山下(現.橋本市)の農家の三男として生まれた義雄は 小学校を出るとすぐ丁稚奉公に出され、多様な職を経験した。
その後、二十二歳の時に大阪に出て当時の先端工業である自転車工場の 松浦溶工所に入り、ガス溶接の技術を習得。

五年後に独立して溶接専門工場を開業した。
社名の由来は先妻実家の生業『竹屋』にこの松浦溶工所の一文字を もらったと言われている。

創業間もなく先妻を亡くし、昭和の大恐慌の折には、仕事の 激減とともに二人の幼子を立て続けに亡くすなど、大変な試練に 見舞われていた。

家族と会社を守るため、義雄はこの難局を必死で乗り越えた。
その中でより、“周りの人々への感謝の心”と自分だけが良くてもダメだ という事に気づかされる。
そこから義雄は溶接加工請負の本業とともに、業界全体のためにも奔走しはじめたのである。

2章 事業変遷①
溶接請負業からガス熔材商社へ

Business

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溶接には酸素ガスが必須であったが、戦前戦中は軍需産業に優先され、中小零細企業には入手が難しいものとなっていた。

このままでは業界自体が潰れてしまうと考えた義雄は、有志を募り自らが発起人となって中小零細企業へ酸素を供給するための会社を設立したり、大阪高圧ガス熔材協同組合の設立にも関わるなど利他の精神で精力的に奔走していた。

こうして一九三六年以降、マツヤ溶工所は溶接請負のみならず、溶接用ガス・材料の販売も開始する。

そして一九五五年、マツヤ溶工所は法人組織『マツヤ産業株式会社』として改組し、鐵工部(溶接請負)とガス熔材部(熔材商)の二つの部門に分けて充実を図った。

それまでは片手間のように取り組んでいた高圧ガス・溶材の販売であったが、改組を機に積極的に取り組むようになる。
取り組みの中で二代目社長の玉西義郎は『大阪高圧ガス熔材協同組合』の理事長を四期八年、また全国熔材組合連合会副会長も務めるなど、初代同様業界の為にも尽力した。

また、その功績が認められ一九八三年には藍綬褒章。
一九九四年には勲五等双光旭日章を受章した。

溶接には酸素ガスが必須であったが、戦前戦中は軍需産業に優先され、 中小零細企業には入手が難しいものとなっていた。

このままでは業界自体が潰れてしまうと考えた義雄は、有志を募り 自らが発起人となって中小零細企業へ酸素を供給するための会社を 設立したり、大阪高圧ガス熔材協同組合の設立にも関わるなど 利他の精神で精力的に奔走していた。

こうして一九三六年以降、マツヤ溶工所は溶接請負のみならず、 溶接用ガス・材料の販売も開始する。

そして一九五五年、マツヤ溶工所は法人組織『マツヤ産業株式会社』として 改組し、鐵工部(溶接請負)とガス熔材部(熔材商)の二つの部門に分けて 充実を図った。

それまでは片手間のように取り組んでいた高圧ガス・溶材の 販売であったが、改組を機に積極的に取り組むようになる。

取り組みの中で二代目社長の玉西義郎は 『大阪高圧ガス熔材協同組合』の理事長を四期八年、また全国熔材組合 連合会副会長も務めるなど、初代同様業界の為にも尽力した。

また、その功績が認められ一九八三年には藍綬褒章。
一九九四年には勲五等双光旭日章を受章した。

3章 事業変遷②
『お役に立つ』チャレンジで新分野に参入

Progress

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ガス熔材を主業とし、その他工具や機械も含めた商社事業で業績を伸ばしていたマツヤ産業であったが、一九七一年五代目社長・玉西敏雄の入社を機にイハラサイエンス製品(当時、伊原高圧継手)を取り扱い始め、新市場へ参入することとなる。

当初は苦戦したが、某工作機械メーカーにて“くいこみ継手”の採用をいただけたことが大きな転機となった。

敏雄は、ただ商社として販売するだけではなく、販売した製品がどのように使われているのかを実際に現場で見聞きし、シールテープ巻き・配管曲げ加工・現合などあらゆる作業を現場の方に成り代わって行って納める事でマツヤ産業ならではをつくり出していった。

すべては『お客様のお役に立つには?』という発想からである。

油圧継手及び配管から始まった新事業であったが、時代の変遷によるお客様のニーズの変化もあって、アイテムを増やし高圧ホースやエアチューブなどの空圧配管なども加工を手掛けるようになり、配管加工事業として発展していくのである。

時同じくして創業以来の事業であった溶接請負事業は一つの役目を終えることになる。

ガス熔材を主業とし、その他工具や機械も含めた商社事業で業績を 伸ばしていたマツヤ産業であったが、一九七一年五代目社長・ 玉西敏雄の入社を機にイハラサイエンス製品(当時、伊原高圧継手)を 取り扱い始め、新市場へ参入することとなる。
当初は苦戦したが、某工作機械メーカーにて“くいこみ継手”の採用を いただけたことが大きな転機となった。
敏雄は、ただ商社として販売するだけではなく、販売した製品が どのように使われているのかを実際に現場で見聞きし、 シールテープ巻き・配管曲げ加工・現合などあらゆる作業を現場の方に 成り代わって行って納める事でマツヤ産業ならではをつくり出していった。

すべては『お客様のお役に立つには?』という発想からである。

油圧継手及び配管から始まった新事業であったが、時代の変遷による お客様のニーズの変化もあって、アイテムを増やし高圧ホースや エアチューブなどの空圧配管なども加工を手掛けるようになり、 配管加工事業として発展していくのである。

時同じくして創業以来の事業であった溶接請負事業は 一つの役目を終えることになる。

4章 近年の取組

Activity

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二〇〇八年のリーマンショックでは当社も大きな打撃を受けた内の一社であった。

このピンチをきっかけに、当社がガス熔材を納めているお客様に協力工場になっていただく発想で、製缶・板金の加工を請け負う製造卸事業を開始する。

その他、二〇一八年に伊賀事業所を大幅増築したことをきっかけに工作機械内装置の一部を組み立てる事業を開始するなど従来のカテゴリに捉われず『お客様のお役にたつには?』という発想で事業を増やしてきた。

また事業以外においても、CO排出量の削減、ジェンダー平等に向けての取り組みなど企業の社会的責任を果たすことで持続可能な発展に積極的に貢献しようとしている。

二〇〇八年のリーマンショックでは当社も大きな打撃を受けた内の 一社であった。

このピンチをきっかけに、当社がガス熔材を納めているお客様に 協力工場になっていただく発想で、製缶・板金の加工を請け負う 製造卸事業を開始する。

その他、二〇一八年に伊賀事業所を大幅増築したことをきっかけに 工作機械内装置の一部を組み立てる事業を開始するなど従来の カテゴリに捉われず『お客様のお役にたつには?』という発想で事業を 増やしてきた。

また事業以外においても、CO排出量の削減、ジェンダー平等に 向けての取り組みなど企業の社会的責任を果たすことで持続可能な 発展に積極的に貢献しようとしている。

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Message

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創業100周年を迎えて

 私たちは2024年、創業100周年を迎えました。
これもひとえに、多くのお取引先様や社員をはじめとする皆様の支えあっての事と深く感謝致します。

 1924年。日本は民主主義や近代化の理念を取り入れつつ社会的に大きく変革しようとしていました。いわゆる『大正デモクラシー』真っ只中。
 ガスの炎に魅せられた26歳の青年が、“自立”を目指し創業したのが【マツヤ熔工所】でした。

その後、昭和大恐慌・第2次世界大戦・オイルショック・バブル崩壊・リーマンショック・コロナショック。幾多の社会的混乱もありましたが、一つずつ何とか乗り越えながら今こうしてあり続けているのは、とても感慨深いものがあります。

 ダーウィンは進化論で『賢い者、強い者が生き残るのではなく、変化に対応できるものが生き残る』と言ったそうです。
 溶接請負業として創業した私たちも、今では“ものづくりのサプライヤー”として商社から自社製造も行うなど業態を進化させてきました。
 一見、“軸”が無いようにも見えますが私たちには一つの“軸”があります。

 それは世の中の『お役に立つ』という事です。

 振り返った100年は長い時間かも知れません。しかしこれから先を約束してくれるものではありません。次の100年も『お役に立つ』の精神を忘れず、時代に応じた価値を創造し、一つずつ信頼に応える存在であり続けたいと思います。

 これまでマツヤ産業を支えて下さった皆様、本当に有難うございました。
 これからもどうぞご期待ください。

代表取締役 玉西陽二